ALSと私

稚内市  平間愛

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あらっ?親指が変、どうしたの?それが私とALSとの出会いでした。当時札幌で専門学校に通っていた私は、ほっときゃ治るとほっといたら、今度は右腕自体動きが悪くなってきた、これぱヤパイかも?!最初にかかった病院では、気のせいだとあっさり言われ、内心ホッとしていたら、いつまでたっても右腕が治らない、それどころか悪くなるぱかり、さすがに不安になり、他の病院にかかりに行きました。最初に外科に行ったら内科に回され、内科に行ったら今度は脳外科、一体どうなっているの?と思っていたら、今度は神経内科、そこで検査入院をすることに……。

入院している中でも進行は止まらず、主治医の先生にもALSである事を告げられ、難病であり治るというより、まさに最悪の説明を受けました。一度は退院したものの、呼吸状態が悪く再入院、あの頃いいと言われる ことはな一んでもやったのに、全てだめ!それどころか悪くなるぱかり、呼吸状態はさらに悪化し、右足を常に左右に揺らし動かさないと呼吸ができない状態でした。

寝たきり生活がスタートし、教師をしていた母が看護休暇をとり、付き添いをしてくれる毎日。19歳で発病して1年で寝たきり、あまりに早く急激に悪くなりすぎたので、私は毎日が暗く、どんどん悪くなる自分を受け入れる事もできず、病院のスタッフの皆さんや主治医の先生に、毎日のように気持を聞いてもらい落ち着かせてもらいながらの日々でした。

夜は、パイパップという呼吸補助の機械を、頭から帽子みたいなのをかぷり口に付けて寝る、それが苦しくて嫌でたまらない、でも付けないで寝ると朝目覚めた瞬間から酸素不足で、頭痛がひどく身体もストライキを起こしちゃう、ALSを嫌なくらい感じるときでした。

ある日私はとうとう意識を失いましたが、幸いなことにすぐ意識は戻りました。母の優しい笑顔に先生や看護婦さんの笑顔を見て、死もつきまとう身体であること、ALSであることが楽に受入られる状態になりつつあ りました。そのときは呼吸器も付けずに生活できる状態を辛うじて保ち、バイパップと共に期限つきの退院、久々に家族全員の中で生活できてたのに、またまた入院しなくてはいけない状況に私はあったのです。 呼吸器をつけていない私は、いつ何がおきてもおかしくない状態でした、難病ですのでどこで療養しても同じこと、ならぱ家族の中で暮らしたいと思い、私は在宅を強く希望していたのですが、安心して在宅生活を送るためには、呼吸器を付け、命には何も影響のない身体にならなくてはいけなかったのです。

ここからがなが一い入院生活のスタート、自発呼吸もかなり弱くなり、私は勝手に「あ一こりやもう死ぬな、死ぬのにはまだ若い…、そうだ呼吸器をつけよう!」と思い、呼吸器をつける事になったのです。呼吸器をつけるにあたって、私は色々な説明を受けました、看護婦さんからは「たいていの人はなれるまで、苦しくてあぱれるよ」と普通の顔して言われるし、主治医の先生からは本を渡され、いろいろな現実を知ることに。きわめつけに「外科の先生が切開しやすい、いいのどだって言ってたよ、声は失うけど大丈夫!」と笑顔で麻酔科の先生に言われ、完壁に頭の中は真っ白、冗談でしよ?!と思いつつ呼吸器をつける当日に…。

全身麻酔をかけられ目覚めたときには、呼吸器がついていました。これからどんな苦しみが待っているのか?と思っていたら、地獄から抜け出たまさに天国、毎日のようにあじわっていた、あの苦しみから開放されたんです。呼吸器をつけたことに喜びを感じました。私は、これで命には何も影響のない身体になったわけす!!こうなりゃたかがALS!呼吸器をつけたことによって身体も楽で、命も元気を取り戻しました,そのかわり声を失い、食べる事も無理になりました。

家族全員で新たな出発を決意し、父は教頭になりますます教師として頑張る日々、妹は高校生活を送りながら家事全般をやりくりし、父を支えながら頑張っていました。母は長年やっていた教師を辞め、本格的に私の介護と付き添いをする毎日、この頃家族は病院と稚内にそれぞれ別れて暮らしていました。

そうそう私ばといえぱ、頑張ってたと言いたいのですが…、毎日泣いたり、いじけてたりしていました。 私を除いて家族3人、私の前でば泣言もいわなきや、涙さえ見せません、これは今でもそうです。今なんかは、いじけたり、泣いたりしていると逆に「あんたがそんなんでどうするの?!」と言われ、笑い飛ばされる 始未です。

当時在宅という大きな自標もありましたが、まずは呼吸器と大親友になるために病院のスタッフの皆さんと、いろいろ生活練習をしました。もう私は赤ちゃんみたいなもんです。声がでないから結局気持が伝わらない、「??」がとびまわる、大泣きする毎日でした。でも対話する手段は、い一っぱいあるんです。機械を使いますが気持は伝わります。声を失い、身体の自由もきかない、おまけに食べ事もできない、悲劇の主人公の生活なんていくらだってできちゃう。でもそんなのつまらないと思いませんか?

私や私の家族は色々な出会いがあり、優しい人や心にふれながら本格的に在宅療養するための準備にはいりました。様々な協力機関が動いてくれて在宅が遂に実現!ボランティアさんは今まで両親がつちかってきた信頼関係による人脈で成り立ち、医療関係者の訪問もあるという、安心して生活できる状況を準備して稚内では着々と受入体制がしっかりとつくられていきました。

その間、私はというと今まで栄養を点滴で補給していたのを胃から直接栄養をとる方法に切り替え!これがまた胃に穴を開けてチューブをいれて。ぶらりとチュープが胃から出ているんです。在宅になるからやーっと 点滴から解放!ラッキー!!と思っていたら説明を聞くと、胃からチューブがブラリ?!あ〜もう嫌だ!と思い私はささやかな抵抗をしましたが、(いじけまくっただけですけどね!)結局[在宅】の魅力には勝てない!!胃から栄養をとる事にしたわけです。

昨年7月10日に稚内に戻り、市内の病院に2泊して、7月12日に遂に在宅生活がスタート!長い入院生活にも別れを告げました。

入院生活の中で様々な出会いを私達親子はしました。病院の中は、地獄のようで天国でもありました。いじけた心に優しさある時間をくれ、障害があっても楽しみ方はいくらでもあることを教えてくれたんです。同病の人もいれぱ違う病気の人もいました、でも皆さん心は元気で今でも私に一杯元気をくれます。退院する前日には病棟のスタッフの皆さんが送別会をしてくれたり……。「ありがとう」という言葉を心から素直に言えて良かった!と思い、「ありがとう」が素直に言える自分になれたらいいな、と思いながら退院しました。

昨年7月10日稚内に到着!市内の病院に2泊したあとに7月12日在宅生活スタート、頑張る平間家誕生!そして沢山の平間家頑張ってね応援団誕生!在宅になって1年、最初のうちはとまどいもありながら、ボランティアさん医療関係者の訪問もある毎日の生活に慣れていきました正直言って、気持の中の葛藤はい一っぱいあります。全てが嫌になるときもあります。でもどういうわけか、ストライキをおこしているとパカらしくなって笑っちやう。

私は居間のど真ん中にデーン!とベットの上で暮らしています、天井を見つめていると外の風景を眺めていると、家族やまわりの気持を考えると、毎日を明るく過ごした方がいいし、私自身にもいいことなんです。 前にも言いましたが、たかがALSなんです。たしかに障害がある身体ですから厳しい現実なんて一杯あります、でもそんなのくそくらえ!です。楽しみたいから車椅子にのって出かけちやう!幸せなことに私の周りは 優しさあふれるれるいい人ぱかり、最近人は心で生きてるんだなとつくづく感じます。

私は3年前にALSという厄介な宝くじに当りました。(本物だったら大歓迎)ALSと結婚したようなもんです。離婚したくてたまらない旦那さまですけどね!こうなりゃ人生たのしまなきゃ損です。この先どんな事がおこり、どんな人生を送るのか?不安でもあり、楽しみでもあります。でも、愛する人がいて、い一っぱいの愛がある今の暮らしに幸せを感じています。

最後に、私はあえて言います、ALSパンザイ!なぜかって?それは心で生きる毎日を与えてくれたからです。そして、沢山の素敵な人との出会いの毎日を与えてくれたからです。

皆さん元気で楽しみましようね!そしていつか会いましようね!!